古代から伝えられている伝承の中に、今も継続して伝えられる真実がある。それは、真の真因、原因の原因へと導く道である。
「認識するものをどうやって認識できようか。それが不死というものだ。」
ヤージュニャバヴァルキア
「カルマの中に、アカルマを見ている者。アカルマの中にカルマを見ている者。
その人は、人間に与えられた知能を、使われるべき用途で使った人。
その人の考え、言葉、行動には矛盾が無く、
その人は、人間として生まれてするべきカルマを全てした人である。」
バガヴァッド・ギーター シュローカ
クリシュナからアルジュナへの教えの言葉サンスクリット語 一日一語 より引用させて頂きました。
リンク先 http://sanskrit-vocabulary.blogspot.com/2015/07/karma.html
ひふみ神示にも、同じように記されている言葉がある。
口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。神の臣民みな命(みこと)になる身魂、掃除身魂結構。ひふみ神示 第一巻 上つ巻 第一帖より抜粋
これらは、現在の状態から、この宇宙の始まりの元である遍満する一想念へと繋がる道を示している。
それらが成し遂げられた時、人は、本当の満足を知り、人として真のふさわしい状態とは何かを理解した上で体現するようになる。
それが、『実在にある』ということである。
それが、この宇宙の永遠という状態にふさわしい意識である。
それに至らんとする道があり、その道を歩む一つ一つが、大切にされるプロセスである。それを続ける限り、必ず到達へと至る。
またこれは、ある不死に近い存在からの話だ。
肉体が、不死となる。それが実現可能になる直前、もし、それにふさわしい意識の状態でなかった場合、肉体の不死の状態と意識の状態の激しい乖離が生じる。そのため、不死を目前として、魂はその肉体にとどまることができず、魂は肉体を離れざるを得ない。
肉体が不死となる前には、必ず、意識もまた同様に、その不死にふさわしい状態である必要がある。
ある不死者からの言葉
またこれとは別に、魂の状態もまた、不死にふさわしい状態、つまり、実在と完全に融合する場合、この世界での肉体の状態との乖離が生じ、魂は自然とその肉体を離れていく。
不死であるものは、不死であることが当たり前であるため、不死であろうとすることはない。また、そこに無理は生じない。
そして、不死とは、自分自身として永遠という時と無限に広がる空間に対して、ふさわしい状態を全力で続けられるもの、ということでもある。
不老不死とは、そういった意味からも、本来は、神の一つの状態として定義できる。ここでいう神とは、全力で自分の仕事を全うせんと努めるもの、そして、その働きが完全で、完璧に行えるもの、という定義である。
それは、図形であり、関係性であり、存在という状態を超えた状態を指す。
不死とは、このようなものとなることだ。
これまで人は不老不死を願ってきた。実際は、それを実現するのは不可能ではない。ただ、その実現のための前提が、それを願うものの状態とはかけ離れている、という点から、不可能にさせている。
また、おそらく、これでは不老不死を願うものの多くは、その状態になったとしても、決して満足しないだろうし、いっときは実現しても、それを真に実現することはないに違いない。
願いは叶えど、思っていた状態と異なる。ということは、よく聞く話だが、願いは正確に。とはよく言ったものだと、感心するところである。
