歓喜について

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歓喜について

内的経験において、最も強く影響があることの一つに歓喜との出会いがある。

ここで言う歓喜とは、物質世界で通常呼ばれている何かを受け取って嬉しい、とか願いが叶って嬉しい、何かが実現して嬉しい、何か自分の望む事が起こるのではという予感や期待などによって感じる感覚とは異なったものであることを最初に明らかにしておく。

ここでいう歓喜とは、二種類ある。

自分自身の存在の状態についてはっきり分かった時に感じる独特の強い感覚と完全なる静けさである。

前者は、究極の相対において体験される非常に強い感覚であり、後者は、自分の源泉となるものと完全に融合した時に現れる感覚である。

前者については、究極のエクスタシーとして語られる事が多く、それはある程度近いもののあくまでも近似値であって、完全に一致するというものではない。

事実、その状態に至った場合、その素晴らしい体感に心臓がもたず、数日後に心不全を起こす。

自分もこの状態を体験した事があるので分かるのだが、この状態になると自分の視界からこの世界が完全に消える。

今まで見ていた世界が消えて、ただ、自分の意識とこの世界の根源の存在のみが認識され、大いなる喜びだけが自分の感覚となる。

どうしてこのことが忘れられるという事が起こっていたのか、なぜこれがわからなくなる事があるのかと不思議に思うと同時に、今体感している感覚、これこそが真実だと全てで分かり、そのよろこびによって心拍数が200近くになる。

心臓の脈とは、よろこびによって起こっているため、この数値になるのは大変自然な事である。

本来であれば、この状態に至った場合、そのまま源泉へと帰ることを選択するのだが、私はこの世界で未だやり終えていない自分のやるべきことを遂行することを選択したため、徐々に意識を物質世界に移行して戻ってきた。

この時の体感感覚は、未だ持っている。が、その状態に埋没するようにしていない。これは意図してか、せずかは定かではないが、この世界での作業が完了したのち、またその状態へと移動することはできるという確信はある。

後者の完全なる静けさについては、自分の内省や内観によって可能である。ただし、以前の記事にも書いた通り、自分一人で行うのは非常にリスクが高い。なまじできる場合は、さらにそのリスクが高くなる。

そのリスクを最小限にするための方法があるので、ご紹介する。

動機が愛であることを宣言する

動機が愛であることを全宇宙に対して宣言する。

これによって、妨害や干渉が最低限となるので、まずこの内的作業を始める前に、一度心を静かにしてからこの宇宙全体に対して、これから行うことは動機は愛であることを宣言し、愛と奉仕によってサポートを行ってくれるものへ、その支援と協力に対して心からの感謝と尊敬と祝福を送る。

この状態を完了し、環境を整えた上で、内省、内観を行う。

最終たどり着くところは、何もない。

自分もなく、光もなく、闇もなく、対象となるものがない。

あるのは静寂そのものである。

この状態が限りなく続くのであれば、間違いなくそれは真に歓喜と出会っている。

このようにして、この物質世界に身を置いていても真の歓喜を体験することは可能である。